位置エネルギーがゼロになったところが荒川の橋。このあたりは向田と申しあげる。
● 荒川はこの先で那珂川に合流するんだけど,その手前で江川が荒川に注いでいる。江川からすればそこが下流端。
10年ほど前になるけれども,江川を下流端から上流端まで歩いてやろうと思って,2日がかりで実行したことがある。上流端は矢板市の山田という集落にあった。
なんであんな酔狂なことを思いついたのか。思いつくだけじゃなく実行しちゃったのか。この説明は長くなるし,あまり面白くもないので,ここでは省略。
● ここからまたコツコツと位置エネルギーを貯めていく。野上を過ぎて,烏山の市街に入る。
● 『栃木県の歴史』によれば,元禄年間には「紙や煙草の集散地となった烏山町には,江戸紙問屋六,紙商三,紙荷才料六,紙売買宿七,紙漉たかさし職二,楮売買宿三,煙草売買宿一五が集中していた」(p214)という。
じつは,ぼくは烏山の近くで生まれ育ったものだ。半世紀前の烏山を知っている。当時は,その残り香がかすかにでもあったと思う。
● 烏山は町だった。賑わいと華やかさがあった。「ひらぶ」に行けば洋服は何でもあり,靴は「なべや」で買うのがステイタスだった。これ,「なべや」で買ったんだぜ。
文房具は「マルマス」が憧れだった。小学生のとき,父親が算数で使うコンパスを「マルマス」で買ってきてくれたことがあった。コンパスももちろん嬉しかったけど,「マルマス」の包装紙をぼくは捨てることができず,しばらく持っていたはずだ。
● 仲町の角には関谷精肉店があった。ここでコロッケを1個買って,バスを待つ間に食べる。世の中にこんなに旨いものがあるのかと思った。
その対面には「おたま」という化粧品店があった。もちろん,ぼくらが入れるところじゃなかった。そこに出入りするお姉さんたちを見やりながら,なんか見てはいけないものを見てるみたいにドキドキしていた。
● 「ひらぶ」にしても「なべや」にしても「マルマス」にしても,今の目線で見れば零細店だったろう。あの頃はモノが貴重で,モノを買うことじたいがめったにない晴れがましいことだったから,それだけでワクワク感を味わえたけれども,今では通用しない商売の仕方をしていたかもしれない。
烏山にも「しまむら」があるけど,「ひらぶ」よりも「しまむら」のほうが,お客に提供している付加価値ははるかに大きいだろう。
● ではあるんだけれども,あの頃の烏山には輝きがあった。
夜,宮境橋を車で通ると,那珂川に屋形船が浮かんでいた。なにやら楽しげな怪しげな空気が伝わってきた。あの中で誰が何をしているんだろう。子どもにもある程度想像はできたけれども,それを親に訊くのは憚られるような気がして,ぼくは黙っていた。
大人になったら自分もああいうことをしてみたいなぁと思ったかどうかは定かでない。
● 一度,那珂川の対岸から烏山の町を見たことがある。夜だった。きれいな夜景だった。光が密集していた。
江戸時代には,対岸側は水戸藩の領地だったらしい。徳川様の御料地。水戸藩の辺境,どんづまり。そこに住む農民も毎晩,烏山藩の御城下を眺めたことだろう。異界がそこにあると思ったことだろうな。
● 烏山にはかつて遊郭もあった。元々は旭にあったのが,烏山駅近くに移転し,そこは新地と呼ばれた。行人社という印刷所があって(今も健在のようだ),そのあたりの経緯をまとめた冊子を出している。
当時,ぼくは中学生だったか高校生だったか。その冊子をわざわざ買いにいった。今も,書庫を探せばあるはずだ(捨てた記憶はないから)。
● その新地を走ってみた。当時の面影は残していない。普通の住宅地になっている。
それから幾星霜もあったわけなので,あたりまえといえばあたりまえだ。唯一,「福田川」という寿司屋の建物が,当時の様子を伝えているだろうか。
● さて,昔語りは以上にして,現在の烏山はどうか。時代を味方につけることができなかった。静かに縮小への道を歩んでいるように思われる。
しかし,それは生産とか経済とかそういう観点からの話であって,車とインターネットが普及した現在では,逆転の発想的な考え方もできるかもしれない。ひょっとすると,烏山は新しい魅力を涵養しつつあるのかもしれない。
● 駅前に立ち食い蕎麦の店がある。正確にいうと,テーブル席もあるんだけどね。で,ここはうどんがお勧めでありますよ。
ここで昼食としよう。「山あげそば JRバス関東」と看板に書かれているから,オーナーはJRバス関東なのかもしれないけど,おばちゃんが2人で切り盛りしている。カレーうどんを食べた。450円。
冷たい水も3杯ほど飲ませてもらって,ひと息もふた息もつくことができた。
● ここで異変。こぎだしたら後輪の空気があまくなっているのだった。パンクか。日のあたらないところで,しかも水が使えるところで修理したい。
市役所か県の南那須庁舎だったら,外側に水道があるんじゃないか。申しわけないけれども,無断使用できないだろうか。
● 思いだした。南那須庁舎の近くに「K」という焼きそば屋があるのだった。ここの焼きそば,麺が独特。いや,自家製麺ではない(と思う)ので,完全に独特というわけでもないのだろうが,蒸していないっていうか,歯ごたえのある麺なのだ。
では,その焼きそばを食べて,南那須庁舎の敷地の隅をお借りして,パンクを修理するとしよう。
● 「K」の焼きそば,以前より盛りが少なくなったような気がした。けど,前からこんなものだったのかもしれない。前回来たのは憶えてないほど昔のことだから。
パンク修理キットは持ってきている。が,パッチが残り1枚しかない。ていねいに貼らないとな。と思いながら,パッチをあてた。
このパンク修理が大休止となった。ちょうどいいと思えば思えなくもない。
● これでパッチがなくなってしまった。どこかで補充しておかないと。烏山にも百円ショップがある。ので,そこに行ってみたんだけど,パンク修理用のパッチは置いていないようだった。
ところで。自転車用品はパンク修理に限らず,まず百均に目が向いてしまう。前照灯も油もダイソーですませている。今まで極安の自転車にしか乗ってこなかったから,百均製品を使うのに何の後ろめたさ(?)も感じないできた。
だけど,どうもダイソーのパッチは百均クオリティーという気もするね。ここはちょっとおごったほうがいいのかもね。
● 気を取り直して,さらに北上することとする。滝田を過ぎ,中山を過ぎ,谷浅見と進んでいく。谷浅見にSAVE ONがあったので,給水休憩。ロッテのスイカバーで身体を冷やしてやる。
さらに大桶,白久を過ぎ,那珂川町(旧小川町)に入る。
● 並木という集落がある。昔,ここに古本屋があったことを思いだした。30年以上も前のことだけども,高見順の全集を安く買えた。ただし,今に至るまで一行も読んでいない。
セブンイレブンが目に入った。ここでも休憩。ガリガリ君スイカとウーロン茶を補給。
● 小川の市街に入ったところで,再び,後輪の空気が抜けてきた。パッチがうまく付かなかったらしい。とりあえず,携帯してきた空気入れで空気をいれてやる。
以後,たびたびその作業を繰り返すことになった。だんだん,空気を入れなければならない間隔が縮んでくる。
● 幸い(っていうか,知ってたわけだけど),294号沿いにカンセキ小川店がある。そこでパッチとゴム糊を買った。併せて712円。これくらいですむんだから,(自転車用品に関しては)百均から卒業しようかなと思いましたよ。実際,あとで使ってみたところ,品質がぜんぜん違ったからね。
ここでもサイダーを飲んで,さらに北へ。
● 小川では見ておきたいところがあった。那須官衙遺跡だ。『栃木県の歴史』によると「最初に下野の地でつくられた寺院は浄法寺廃寺である」(p51)らしい。
その近くにあるのが那須官衙遺跡で,築造されたのは奈良時代とされているようだ。このあたりには有名な侍塚古墳もあり,那須国造碑が伝わるところだ。
● かつてはこの一帯の中心地であったに違いない。新羅人が集団で渡来して開拓,定住した,とされる。
那須国造碑の碑文を書いたのも渡来人だろう。碑文は「那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰する」ものであるようだ(ぼくにはまったく読めないのだが)。
このあたりを解説した昔の本の中には,直葦提は土着の人で,彼が渡来人たちをよく統率したと受け取れる内容のものもあった。けれども,そんなことはあり得るはずもなく,彼もまた渡来人で,渡来する前から彼らの棟梁だったからこそ,彼らをまとめることができたのだと考えるほうが自然というものだ。
● その渡来人の子孫はもうこの辺にはいないと思う。住民は入れ替わっているはずだ。あるいは,溶けてしまっているはずだ。
昔,小川町の長老(土地改良区の理事長を務めていた人)に訊いたことがある。浄法寺のあたりには古い家系の人が残っていると聞いたことがあるが,とおっしゃっていた。
とはいえ,奈良時代まで遡るほど古い家系は残っていないと想像する。天皇家をほとんど唯一の例外として,そんなものは他にないだろう。
● ちなみに,明治維新前後に,那須郡の南部には新潟や富山から相当な数の移住者があったようだ。ちょっとした民族移動だったのではないか。
それ以前にもそういった波があったはずだ。明治以前の日本は封建制に縛られて,人は生まれた土地から離れることができなかったと考えるのは,おそらく間違いだ。
● というわけで,那須官衙遺跡だ。294号を左に曲がるんだけど,行き過ぎてしまったようだ。ちょっと遠回りした。
曲がり角にくると案内板が行き先を表示してくれるので,最初に行き過ぎたことを除けば,迷うことなくたどり着ける。
● 来てみれば,目に入るのは原っぱだ。畑に囲まれた原っぱ。ここから往事の郡衙を想像の中で復元できる人はいないだろう。いや,専門家はできるのか。
たぶん,畑になっているところにも郡衙の建物はあったのだろうな。原っぱだけだとすると,少々以上にささやかすぎると思えるので。
● 近くに資料館もあるので,そこに行けば復元予想図もあるのかもしれない。しかし,気になっていた遺跡を見て,気がすんでしまった。それ以上の探究心は残っていなかった。
まさに跡。看板に偽りなし。 |